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教育について考える

マーク・トウェインの『人間とは何か』を久しぶりに読み返した。
初めて読んだのは高校生のとき。マーク・トウェインと言えば、トム・ソーヤーやハックルベリ・フィンでおなじみの(と言っても私は読んでいないが)明るく楽天的なイメージがあるけれど、晩年のこの作品はかなりペシミスティック。

老人と青年の対話形式のこの作品では、老人が「人間機械論」を青年に展開する。人間は外からの力によって支配されていて自由意志はなく、第一義的に自分のために行動する機械にすぎない、他人のために何かをすることはない、というのである。
青年は、他人のために自ら犠牲になる人だっているだろうと具体例をあげて反論する。しかし老人は、やらなかったことを後悔したり、周りから白い眼で見られたりという精神的苦痛よりは肉体的苦痛のほうがよりましだと考え、「自分のために」やったのだと論破する。そして、そうした考えや価値観、道徳や信仰もすべて自分で創りだしたものではなく、周囲の影響で決まるのだという。
終始この調子で話は進み、青年は「あなたの話はひどすぎる」と嘆く。

これを初めて読んだ当時の私は、青年のように嘆いたりせず、老人の言うとおりじゃん、と思っていた。他人にとって悪いことをやるんじゃまずいけど、いいことをやるんだったら「自分のため」っていう動機でも別にいいじゃん、他人にとってもいいことをやりたいって思うような人間に訓練や教育で育てればいいんだよ、と。
しかし、今回読み返してみて怖ろしさを感じた。「第一義的に自分のために行動する」という部分ではなく、「外からの力によって支配されていて自由意志はない」という部分だ。自由意志がまったくないという老人の意見には疑問を感じるけれど、外部からの影響が大きいことは間違いない。ならば、悪い影響ばかりを受けていたらどうなるのだろうか、また、意図的に教育・訓練をすることで都合のいい人間に変えられるということではないかと考えたら怖ろしくなったのだ。
高校生の頃の私は深くは考えず、教育とは知識を与えるもの、知識は中立的なものと漠然と思っていたのだろうか。先の戦争の頃のことを考えれば教育の怖ろしさがわかったはずなのに、教育が諸刃の剣であるということに考えが及ばなかったのだろうか。記憶にないということは、さらっと読み流してしまっていたのだろう。

そんなことを考えていたら、新聞でこんな記事(朝日新聞2008年2月2日「異見新言」)を見つけた。前に「手帳」で引用した『教育で平和をつくる』の著者、小松太郎さんが書いたものだ。

「紛争後の支援 教育の内容にも関与必要」
アフガニスタンの教科書に、こんな表現があった。
「弾丸は30発です。5人の戦士で分けると、1人当たり何発になりますか?」
「わたしはロシア人を3人殺しました。あなたは5人殺しました。さてぜんぶで何人殺したでしょう?」
「イスラム教徒として適切でない者は殺してもいい」
教科書は、冷戦期にアフガニスタンを占領したソ連への対抗策として、米国の支援によってつくられたものである。


衝撃的な内容である。戦後再開した学校では、こうした教科書のあからさまな暴力的表現は削除されたものの、宗教科目などはそのまま使われたそうだ。暗澹たる気持ちになるが、小松さんはこう言っている。

紛争前・紛争中の社会には、憎悪の蔓延、基本的人権の侵害、特定の集団に不公平な社会制度など、暴力につながる要因が往々にしてある。復興は、その要因を排除していく機会となりうる。教育は国づくり・人づくりの根幹的な営みである。そのあり方によって、人々を平和にも紛争にも向かわせる。


そう、教育は人々を紛争に向かわせることもあるが、平和に向かわせることも、もちろんできるのだ。
そして小松さんは、紛争後の復興で早く学校を再開することと同時に、教育の内容について関与することも必要である、緊急性がないと思われがちな教育は実は優先課題であり、紛争後復興国の支援体制を考えていかなくてはならないと続けている。
教育は、復興の優先課題であるだけでなく、世界中どこでも重要なものであるし、自分のこどもたちにも関わる身近な問題でもある。また、すぐに結果が出るものではないので、粘り強く慎重に取り組んでいかなければならないことだろう。教育の力は良い方向にも悪い方向にも働くものであることを忘れず、もっと深く考えていこう。
by roki204 | 2008-03-04 23:32 | 本や映画
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