<   2008年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

優しくないのは誰?

ママって優しいよね

こども2号に言われた。お風呂上りに髪を拭いてあげているときだったので、それでかな?と嬉しくなったら、

だって、大人だもん

それって全然褒めてないじゃん・・・。
で、大人でも優しくない人もいるし、こどもで優しい人もいるじゃない、と言うと、真面目な顔で頷きながら

どろぼうのお父さんは優しくないよね

えーっと・・・、どろぼう本人じゃなくて、どろぼうのお父さん? そうだね~、優しくないかもね~。

あと、オバケのリボンをつけたお姉さんもね

・・・・・・うん、そうだよね、たぶん。

2号は、やっぱりママも同じ考えだったんだねってな満足気な顔で頷き、向こうへ行ってしまった。
[PR]
by roki204 | 2008-03-24 23:31 | こども2号

3号、行きまーす!

新聞に入っていたユニクロの広告を見て、「ガンダム00のTシャツがある!」と夫。プラモデル付きなのも魅力的だったらしい。「3号に買ってやらなくちゃ!」と大騒ぎ。1号にも服を買うつもりだったので、早速ユニクロへ行った。
ガンダムTシャツはキッズ用なので、110cmからしかない。4歳の2号にちょうどいいサイズだ。それでも3号に着せると言うので、「ほんとにそれ買うの?」と不思議そうな顔をしている1号と2号に「お父さんが3号に着せたいんだって。ちょっと大きいけどいいんだって」と説明し、買うことにした。
案の定、Tシャツというよりワンピースみたいになってしまっていたけれど、けっこう似合っていて、「ガンダムだよ」と教えたら「んー?」と3号も少し嬉しそうだった。夫も「お、3号、かっこいいな!これはエクシアだぞ」なんて嬉しそう。
それを着て行ったお墓参りの帰り道、「かけっこしよう!」とみんなが走り出すと、3号も「よーい、どん!」を自分でやりながら、「アムロ、行きまーす!」とばかりに元気に駆けていった。
f0063923_0574160.jpg

向こうのほうに小さく見えているのが夫、1号、2号。「ダーダ、ねーねー、バブ、待って!」と3人を呼びながら走っていった。
[PR]
by roki204 | 2008-03-24 00:57 | 家族

安全運転で行こう

私の住んでいるところは車がなくては生活できない。ほぼ毎日、こどもの送り迎え、通勤、買い物で車を運転する。それにもかかわらず私はいまだに運転が上手ではないので、無茶なことはせず、安全運転を心がけている。こどもを乗せているときは、なおさらだ。事故を起こさないようにというだけでなく、こどもたちがいずれ免許を取って自分で運転するようになったときに危険な運転をしないようにしてほしいという教育的配慮もある。
さて、先日のこと、こどもたち3人を連れてスーパーへ買い物に行った帰り、私たちをかなり無茶なやり方で追い越していった車があった。私たちの前にも数台車が続いていて、それぞれ常識的なスピード、常識的な車間距離で走っていたのを、後ろから来た車が反対車線にはみ出したり戻ったりを繰り返しながら、次々と追い越していったのだ。
私はいつものように、こどもたちに言った。ああいう危ない運転をしてはいけないよね、ぶつかったりしたら大変なことになっちゃうよね、あんな危ないことをしたって少しだけ早く家に帰れるくらいで、たいしていいことなんかないのにね。
すると、1号が言った。

「それに、抜かしていったらずるいから、やっちゃいけないんだよね」

そうそう、そのとおり。
続けて、2号が言った。

少しお菓子を多く食べられるからって、あんな危ないことしちゃいけないんだよね

そうそう、そのとおり。・・・・・・ん?

そういえば、買い物をしているとき、菓子パンを見つけて「3時のお茶のときに食べたい」と2号が言っていたけれど、そのときすでに4時半くらいになっていて、こんな遅い時間に大きなパンを食べたら夕飯が食べられなくなるからダメって言ったんだっけ。きっと、そのせいで「早く帰れば、お菓子を多く食べられる」って考えてるんだろうな。
相変わらずへんちくりんな思考回路なのだけれど、食べるの大好き、お菓子大好きな2号が、お菓子を多く食べたくても危ない運転をしてはいけないというのだから、ほとんど何があっても危ない運転をしてはいけないと言っているのに等しい。その心がけを忘れず、自分で運転するようになったときには安全運転するんだよ。
それにしても、2号さん、大きな菓子パンは買わなかったけれど、小さいドーナツとチョコレートのお菓子は買ってあげたじゃないか。それだけあれば、十分だと思うんだけどねえ。
[PR]
by roki204 | 2008-03-21 23:12 | こども2号

こども1号の卒園式

こども1号の保育園の卒園式が無事に終わった。6年間も通った保育園。通い始めた頃はまだ1歳にもなっていなくて泣いてばかりだったのが、今ではすっかり大きくなって、卒園という節目を迎えることができたのは感慨深い。
感動的な卒園式の中でも一番盛り上がったのは、卒園証書授与のときだった。一人ひとり前に出てもらいに行くときに、あらかじめ録音されていたこどもたちの将来の夢が流されたのだ。
そんなことをしていたなんて知らなかったので、みんな「うちの子はなんて言ったんだろう?」とドキドキ。さらに1号たちのクラスの場合、長くて6年、短くても4年も一緒だったうえに、人数も11人と少なめなので、一人ひとりみんなよく知っている子たちだから、私たち保護者は11人分ドキドキしながらキャーキャーと騒ぐことになった。

「○○です。大きくなったらクッキー屋さんになりたいです」
(おおー、いいねー! かわいいねー!)

「○○です。大きくなったらセブンイレブンの店長さんになりたいです」
(買いに行くよ! パートで雇って!)

「○○です。大きくなったら床屋さんになりたいです」
(うちの親に弟子入りする?)

「○○です。大きくなったら、ママみたいになりたいです」
(いいねー! ママ、泣いちゃったよ!)

1号はと言うと、こないだまでは「おひめさま」とか「キュアミント」とか言っていて、まともな職業を言ったことがなかった。ほとんどの子が職業を言っていたけれど、まあいいかと思っていたら、このときはなぜか「お医者さんになりたいです」。そんなことは初めて聞いたのでびっくりしてしまったが、友達と同じにしたのだそうだ。
ちなみにほかのお母さんたちからのコメントは「千葉大で決まりだね!」、「お金かかるよ!今から貯めておかないと!」だった。はい、頑張ります。

さて、発表会のときに一人舞台で踊っていなかったY君のことだけれど、緊張してしまうので人前に出たり、みんなの前で何かするのが苦手なので、このときもY君のお母さんと心配しながら見守っていた。順番が来て前に出てきたY君。ちょっとあやしい動きも見せたけれど、きちんと卒園証書を受け取っていた。6歳の子ならそれが普通で、ほかの子がピシッとしすぎなのだろう(だって、まるで軍隊かコントみたいって子もいたし)。そして、将来の夢は・・・

「Yです。大きくなったら、えーっと・・・・・・水族館の店長さんになりたいです」

「ねえ、今日のY、花丸じゃない?レベル低いかもしれないけど」と笑っていたY君のお母さんはとても誇らしげで、私も「カッコよかったよね!」と答え、二人で大喜び。「えーっと」の後に周りの友達のくすくす笑いも録音されていたのも微笑ましくて、子どもたちの仲の良さそうな様子が伝わってきていた。

半分以上の友達は別々の小学校へ行く。その中の1人、Rちゃんは「中学校はまた一緒になるから、それまで忘れないでね」と言っていたそうだ。保育園には不満に思うこともなかったわけじゃないけれど、1号やY君やみんなの成長ぶりを見れば、いい保育園だったのだ。みんなかわいくていい子たちで、一緒に過ごせて本当によかった。

・・・・・・なーんて感傷的になって総括しちゃってるけど、1号が卒園するってだけで、私はまだ5年も2号、3号を連れて通わなくちゃならないんだよなー。ふぅー、長いのう。
[PR]
by roki204 | 2008-03-19 23:19 | こども1号

創作劇

保育園の発表会へ向けて練習をしているうちに女優開眼、ということなのか、こども1号と2号のごっこ遊びが単なるごっこ遊びというよりも創作劇といったほうがあたっているというようなレベルにまでなってきた。
この創作劇は、セリフだけでなく、ストーリー展開や舞台設定などの説明、つまり台本のト書きのようなものも言いながら進められていく。もちろん、ト書きを言うときにはいつもどおりの口調で、セリフを言うときにはちゃんとそれっぽい口調に変わる。
今回の劇では、コワイナー(プリキュア前シリーズの悪役)だかホシイナー(プリキュア現シリーズの悪役)だかなんだかよくわからないが、悪役として抜擢されたのはリビングに作り付けの引き出し。今までは、敵はいるつもりで空中を相手にしていたので、これはちょっとした進歩(?)。
1号と2号はプリキュア役、おそらく1号がキュアミント、2号がキュアアクア。2人がかりで引き出しを蹴ったり、パンチしたり、押したりして、戦うシーンで物語は幕を開けた。
(以下、こどもたちの言葉の中の青い字がセリフ、黒い字はト書き。なので青い字はそれっぽい声で言っているつもりで読んでください。)

私たちは絶対にあきらめない!

ずっと頑張ってきたの! だから、変身できるの!

これは町で一番の悪者よ!

いかにもプリキュアが言いそうなセリフだけれど、微妙に違っている。そして、セリフの合い間には「○○は~なのね」、「それで××は~になったのね」とト書きが入る。
ご飯支度中でよく聞き取れなかったのが残念。それに、おもしろいからもっと続けていてほしかったのだけれど、用意ができてしまったので「ご飯だよ~」と呼んだ。

今、オオカミは苦しんでいるから、ご飯を食べちゃいましょ

まだ続いてるんかい?! 敵はいつの間にかオオカミに変わってるし。ま、プリキュアにも食事休憩は必要だよね。
そして食事中も劇は続く。

2号「オオカミはシチューが嫌いなのね。それで食べさせちゃうのね。ほら、食べなさい!『にがーっ!』」

1号「1人倒れたから、あと200人になったのね。それでもまだ200人いるわ!大変だわ!

2号「オオカミは1人で転んだのに、とぼけてるのね。オオカミはとぼけてておかしいわね、お母さん

え? 私に話を振るの? あー、そうだねー、おかしいねーと話を合わせ、2号のほうがよっぽどとぼけてるよという言葉は胸にしまっておく。ちなみに、こどもたちは普段は私のことを「ママ」と呼ぶが、劇をやるときには「お母さん」となる。「お母さん」と呼ばれたときは、私もちゃんと演技をしなくてはならない(ような気がしてしまう)。

ブーッ(1号がおならをした)

1号「誰がおならしたの?

2号「オオカミよ! だから、くさいって言いなさい!

こうして、シュールで前衛的な創作劇は幕を閉じた。
[PR]
by roki204 | 2008-03-14 22:44 | こどもたち

発表会

こどもたちの保育園の発表会があった。3人ともそれぞれの持ち味が出ていて、とてもおもしろかった。

まずは1号から。合奏では、いつもどおりに生真面目さを存分に発揮。きちんと指揮者のほうを向いて座り(椅子は正面に向けて並べてあるのに、指揮者の方を向くために斜めに座わり)、手元のピアニカは全然見ていない。それでもちゃんと弾いていた。さすが。次の劇では、まだ少し緊張気味。それでも、にっこりしながら赤い鳥の役をやっていた。「ミニーちゃんみたいな服で、ミニーちゃんみたいな大きなリボンをつけるの♪」と嬉しそうに言っていたダンスをやる頃には、だんだん慣れてきてリラックスしていたのか、本当に楽しそうに踊っていた。ダンスの途中で、仲良しの友達と顔を見合わせてにっこり、なんてことも。年長さんだけでやる遊戯は、鳴子を持って踊るもの。手足をビシッと伸ばしてきびきびと踊るのは、軽やかなステップよりも1号の得意とするところ(本人の好みは違うかもしれないが)。練習のときに、「1号ちゃんが一番上手にできているから、前に出てやって見せて」と先生に言われたことを誇らしげに話していただけあって、本当にカッコよく踊れていた。

2号は今年も元気いっぱい! 劇もダンスも、手を大きく広げて、ボールみたいにぴょんぴょん飛び回っていた。ステップのときにはなぜか左足だけがピョコンと上がり右足は上がっていなかったのが、おかしくて、かわいらしくて。でも、本人はそんなことは全然気にしていない(というか、とても上手にできていると自分では思っている様子)。舞台袖に戻るときに、間違えてみんなとは反対の方向に行きかけて慌てて戻った、なんてことも本番終了直後にはもう忘れてしまっていたみたい。自分に都合の悪いことは、すぐに記憶をゆがめたり消去したりしてしまうのは、去年の発表会で証明済み。合唱のときには大好きな年長のなっちゃんが隣だったので、ときどきなっちゃんの顔を見上げてにっこり。だんだんなっちゃんのほうへにじりよっていっていた。優しいなっちゃんは嫌がる様子もなく、2号を見てにっこりしてくれていたのが、とても微笑ましかった。

3号はまだ出番はなく見学のみ。始めのうちこそ「ねーねー、バブー」と言いながら姉2人を探して観ていたけれど、じきに飽きてしまい、歩き回りだした。仕方なく私も一緒にお散歩。でも、一人で走っていくわけでもないし、時々振り向いて「ママ!」と言っておいでおいでをしている。歩かせておいて後ろからついて行けば、そんなに悪いことをするわけでもなく静かにしているんだから、おりこうさんじゃないか!と私は思っていたのだけれど、一緒にいた母は「これは相当なワルだね~」と。・・・・・・ま、いっか。

そういうわけで、無事に発表会は終了。楽しそうに頑張っていたこどもたちを観ることができてよかったのだけれど、ちょっと気になることがあった。
それは、やりすぎなんじゃないか、何もここまでやらなくても、ということ。2年前、まだ1号が年少だった頃に、初めて年長さんたちの発表を観たときには、「こんなことまでできるなんてスゴイ!信じられない!」とただただ感動していただけだったような気がする。でも、実際に1号が年長になった今、いろいろなことができるようになり、成長したことを知っているので、信じられないということはない。ただし、相当頑張らなくてはできないということも知っている。発表会に向けて、みんなで頑張って、協力して、一つのものを作り上げるということは、こどもたちにとってもいい経験になるとは思うが、やりすぎては負担になる。それに、1号や2号はこういうことを楽しんでできるタイプだが、嫌だという子もいる。
発表会はあくまでもこどもたちのためのものであり、先生や親たちの見栄のためにこどもたちを利用するようなことがあってはいけないし、こどもたちが楽しめるものであってほしい。こういうのは嫌いだという子がいても、その子の個性だと受け入れてほしい。舞台の上で踊らずにいたY君を見てそんなことを思い、楽しかった気持ちにちょっと苦い思いも混ざった発表会だった。
[PR]
by roki204 | 2008-03-12 23:27 | こどもたち

卒乳への道

今まではベビーサインでおっぱいと言っていたこども3号が、言葉で「おっぱい」と言えるようになった。発音がちょっとおもしろくて、文字にすると
おっぱー いー
という感じ。二語分もかなり話せるようになってきているので、おっぱいのサインをした後に「ちゅっちゅっちゅっ」と言ったりもする。夜、布団に入ると、「ねんねー」と言って、両手をげんこつにしてとんとん。げんこつ山のたぬきさんのようにおっぱい飲んでねんねするという意味。私がなんていうかはわかっているので、先回りして「えー」と言って、きゃっきゃと笑って喜んでいる。夜はそのまま眠ってしまうのでやらないけれど、お風呂では眠らないので、飲み終わったときに手を合わせて「ごちそうさま」とご挨拶。
礼儀正しいね~。感心、感心(^.^)

・・・・・・じゃなくてヽ(;´Д`)ノ
そんなにいろんなことわかってて、いろんなことできるくらい大きくなったんだから、おっぱいやめられるんじゃないの?

「今日からもうおっぱいはダメ!」なんていきなり断乳するのが嫌で、1号のときも2号のときも自然に卒乳できるときを待った。何も言わなくてもだんだん飲む回数は減っていき、1歳4、5か月頃だったろうか、昼間はいつの間にか飲まなくなった。なかなかやめられなかった寝る前のおっぱいも、「そろそろやめようか」なんて言いながら飲ませているうちに、飲んだり飲まずに眠れたり・・・を繰り返し、気がつけば飲まなくなっていた。だから、いつかということははっきりしないけれど、だいたい1歳9か月頃だったんじゃないかと思う。
3号は今、1歳7か月。「そろそろやめようか」と言い始めてから、かれこれ2か月ほどたつ。

3号がおっぱいを要求→「おっぱい飲まないでねんねしようよ」と私→「やーだ!」と3号→「じゃあ、もうちょっと大きいお兄ちゃんになったら、ちゃんとおっぱい飲まないでねんねできるように頑張るんだよ」と私→3号が元気良く手をあげて「わかった」のサイン

これが毎晩、寝る前の儀式のようになってしまっている。隣で寝ている1号も「ママ、ずっと前から毎日そう言ってるけど、まだおっぱい飲んでるね」とあきれ顔。「1号も2号も同じだったんだよ」と言い訳めいた反論をすると、「ふーん」とおもしろがって聞いているけれど。

1歳半健診のときには保健婦さんに、まだ飲んでるのか、寝るときのおっぱいは虫歯になりやすいなどと言われる。毎回、「はいはい」と答えながら、そんなに急がせなくてもいいじゃないかと心の中で反論していた。近頃では「いついつまでに断乳しなさい」なんてことはあまり言われず、自然にやめられるまで続けていたほうがいいという話もよく聞く。私もそう思うからこそ、のんびりやっていたのだし、それで1号も2号も虫歯にはならず、ちゃんと卒乳した。だから3号も同じようにやっている。
結局のところ、おっぱいをやめるのに適したときというのは「何歳何か月」とか、「○○が食べられて△△が飲めるようになったら」とか、マニュアルみたいに決められるものではなく、それぞれがこどもの様子や母親の事情で決めていくものなのだ。
こんな調子でほんとにやめられるのかねと思ったり、疲れたし面倒だからやりたくないな~なんてこともあるけれど、3号と相談しながらゆっくりやっていくことにしよう。

今日は、「おっぱい飲まないでねんねしようよ」と言うようになってから、初めて飲まずに眠ることができた。と言っても、遊びつかれて眠くなっていたからであって、明日はまた飲まなくては眠れないのだろう。登ったり下りたりしながら、3号の卒乳への道は、なだらかに続いている。ゴールはもうそんなに遠くはなさそうだ。
[PR]
by roki204 | 2008-03-06 23:21 | こども3号

完敗

もうすぐ毎年恒例の保育園の発表会。1月から練習が始まっている。ダンスや劇、合奏など盛りだくさんななかで、ダンス一つと劇はこども1号と2号が一緒に出演するので、家でも2人で張り切って練習している。それを見ていればだいたいどんなものなのかはわかるけれど、「2号はなっちゃんをやるね!」などと言ってなぜかほかの人のパートをやっているので、本番ではいったいどんなことをやるのか楽しみである。
でも、実は発表会の内容については先生からこどもたちへかん口令が敷かれているらしい。「本番のときにお父さんやお母さんをびっくりさせたいから黙っておこうね」というわけだ。ほかの人たちに聞いてみると、「先生に言っちゃいけないって言われてるから・・・」と律儀に言いつけを守って教えない子もちゃんといた。年少クラスだと「鳥の役をやるとかふくろうがどうのとか言ってるんだけど、何の話だかさっぱりわからない」ということも。
本番までのお楽しみというのも悪くはないが、ある程度は知っていないと、ほんのチョイ役で登場場面が少ない場合、せっかくの出番を見逃すことになりかねない。ビデオも撮り損なってしまうおそれがある(実際、1号が3歳のときにそういう失敗があった)。そういうわけで、親同士での情報交換が重要となってくる。うちのこどもたちはやって見せるだけでなく、いろいろと話してくれているので、私はもっぱら情報を提供する側だ。
でも、一つだけわからなくてずっと気になっていたことがあった。合奏でやる曲のタイトルだ。今まで何回か1号に何の曲をやるのかを聞いていたのだが、そのたびに「先生が言わないからわからない」と言っていた。それで、どんな曲かと聞いたら歌ってくれたのだけれど・・・

♪ ラ ラ すん ラ ギス ミ ミ (「すん」は四部休符)

♪ ドレミソードラーシーソー ドシラソードレーミレー

それぞれの音の長さもあやふやだし、何拍子の曲なのかもはっきりしない。「ラ ラ ラ ギス ミ ミ」はきっとメロディじゃないんだろう。「ドレミソード」のほうがメロディっぽい。これまでの傾向からクラシックのわりとメジャーなもののはず。なのに、何の曲だかさっぱりわからない。わからないとなると余計に気になる。
その後も練習のあった日には「歌ってみて」とか「なんていう曲か先生教えてくれた?」などと聞いていたのだが、ずっとわからないままだった。それを何の曲なのか友達のお母さんから教えてもらえたのだ。クラシックではなかったし、「ラ ラ ラ ギス ミ ミ」がメロディだったので驚いたけれど、ほんとにすっきり。1号もタイトルは聞いてないって言ってたから教えてあげよう。もとの曲も聞かせたらおもしろがるかな。すっきりした気分で1号に「ママはMちゃんのママに何の曲をやるのか聞いちゃったよ~」と言うと

「○○でしょ」

(((( ;゜Д゜))) え?!知ってたの?
なんと、先生に内緒にしておこうと言われたので、ずっと知らないふりをしていたと言うのだ。「教えない」などと言わずに「知らない」と言うなんて、あまりにも見事なとぼけっぷり。天晴れ。私は完全にだまされていた。
いずれ大きくなれば、親にうそをついたり隠し事をしたりすることもあるだろうけれど、そんなのはまだまだ先の話、と思っていたのに・・・。でも、ショックとか、腹が立つとか、そんな気持ちには全然ならず、ただただ感心してしまった。1号ってほんとにすごい。なんて賢い子なんだろう。
もう少し大きくなったら、うそや隠し事で手を焼いて、生意気だと腹の立つこともあるだろうが、1号は深みがあっておもしろい人間に成長していってくれるんじゃないか、きっと楽しませてくれるだろうな、なんてことを思い出し笑いしながら考えた。
[PR]
by roki204 | 2008-03-04 23:35 | こども1号

教育について考える

マーク・トウェインの『人間とは何か』を久しぶりに読み返した。
初めて読んだのは高校生のとき。マーク・トウェインと言えば、トム・ソーヤーやハックルベリ・フィンでおなじみの(と言っても私は読んでいないが)明るく楽天的なイメージがあるけれど、晩年のこの作品はかなりペシミスティック。

老人と青年の対話形式のこの作品では、老人が「人間機械論」を青年に展開する。人間は外からの力によって支配されていて自由意志はなく、第一義的に自分のために行動する機械にすぎない、他人のために何かをすることはない、というのである。
青年は、他人のために自ら犠牲になる人だっているだろうと具体例をあげて反論する。しかし老人は、やらなかったことを後悔したり、周りから白い眼で見られたりという精神的苦痛よりは肉体的苦痛のほうがよりましだと考え、「自分のために」やったのだと論破する。そして、そうした考えや価値観、道徳や信仰もすべて自分で創りだしたものではなく、周囲の影響で決まるのだという。
終始この調子で話は進み、青年は「あなたの話はひどすぎる」と嘆く。

これを初めて読んだ当時の私は、青年のように嘆いたりせず、老人の言うとおりじゃん、と思っていた。他人にとって悪いことをやるんじゃまずいけど、いいことをやるんだったら「自分のため」っていう動機でも別にいいじゃん、他人にとってもいいことをやりたいって思うような人間に訓練や教育で育てればいいんだよ、と。
しかし、今回読み返してみて怖ろしさを感じた。「第一義的に自分のために行動する」という部分ではなく、「外からの力によって支配されていて自由意志はない」という部分だ。自由意志がまったくないという老人の意見には疑問を感じるけれど、外部からの影響が大きいことは間違いない。ならば、悪い影響ばかりを受けていたらどうなるのだろうか、また、意図的に教育・訓練をすることで都合のいい人間に変えられるということではないかと考えたら怖ろしくなったのだ。
高校生の頃の私は深くは考えず、教育とは知識を与えるもの、知識は中立的なものと漠然と思っていたのだろうか。先の戦争の頃のことを考えれば教育の怖ろしさがわかったはずなのに、教育が諸刃の剣であるということに考えが及ばなかったのだろうか。記憶にないということは、さらっと読み流してしまっていたのだろう。

そんなことを考えていたら、新聞でこんな記事(朝日新聞2008年2月2日「異見新言」)を見つけた。前に「手帳」で引用した『教育で平和をつくる』の著者、小松太郎さんが書いたものだ。

「紛争後の支援 教育の内容にも関与必要」
アフガニスタンの教科書に、こんな表現があった。
「弾丸は30発です。5人の戦士で分けると、1人当たり何発になりますか?」
「わたしはロシア人を3人殺しました。あなたは5人殺しました。さてぜんぶで何人殺したでしょう?」
「イスラム教徒として適切でない者は殺してもいい」
教科書は、冷戦期にアフガニスタンを占領したソ連への対抗策として、米国の支援によってつくられたものである。


衝撃的な内容である。戦後再開した学校では、こうした教科書のあからさまな暴力的表現は削除されたものの、宗教科目などはそのまま使われたそうだ。暗澹たる気持ちになるが、小松さんはこう言っている。

紛争前・紛争中の社会には、憎悪の蔓延、基本的人権の侵害、特定の集団に不公平な社会制度など、暴力につながる要因が往々にしてある。復興は、その要因を排除していく機会となりうる。教育は国づくり・人づくりの根幹的な営みである。そのあり方によって、人々を平和にも紛争にも向かわせる。


そう、教育は人々を紛争に向かわせることもあるが、平和に向かわせることも、もちろんできるのだ。
そして小松さんは、紛争後の復興で早く学校を再開することと同時に、教育の内容について関与することも必要である、緊急性がないと思われがちな教育は実は優先課題であり、紛争後復興国の支援体制を考えていかなくてはならないと続けている。
教育は、復興の優先課題であるだけでなく、世界中どこでも重要なものであるし、自分のこどもたちにも関わる身近な問題でもある。また、すぐに結果が出るものではないので、粘り強く慎重に取り組んでいかなければならないことだろう。教育の力は良い方向にも悪い方向にも働くものであることを忘れず、もっと深く考えていこう。
[PR]
by roki204 | 2008-03-04 23:32 | 本や映画