カテゴリ:本や映画( 21 )

「グリーン・ゾーン」

※ ネタバレあります

久しぶりに映画を観に行った。大好きなティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」にしようかとだいぶ迷ったけれど、「グリーン・ゾーン」にした。
ボーン・シリーズのマット・デイモンとポール・グリーングラスがまたタッグを組んだアクション映画、「ボーン・アルティメイタム」を超える臨場感などと宣伝され、キャッチ・コピーは「114分間、あなたは最前線へ送り込まれる」。私が観ることにしたのは、そんな陳腐な宣伝に惹かれたわけではなく、イラクにあったとされていた大量破壊兵器の話だったからだ(マット・デイモンが好きだからというのも大きかったけれど)。
とは言っても、そんなに期待していたわけではなかったのだが、観てみたら期待以上のものだった。純粋に娯楽としてアクション映画を楽しみたい人にとっては、まあまあという程度かもしれないが、イラク戦争とはなんだったのかということに正面から向き合ってまじめに考えて取り組んだ映画という印象を持った。
映画の中では、大量破壊兵器はなかった、情報をでっちあげてアメリカの都合で戦争を始めてしまった、ということをはっきり言っている。そして、そのせいでイラクをめちゃくちゃにしてしまったのだということも。登場人物にイラク人通訳が出てくる。彼に「俺だって国のことを思ってる。あんたたちの思いより強い。俺の国だから」、「あんたたちにこの国のことは決めさせない」と言わせているのは、そのことに対する反省ではないだろうか(今でも被害が続いているイラクの人たちにはこんなものでは足りないだろうが)。しかも、このセリフを、上司に背き、危険を顧みず、正義のためにと必死になっていた主人公に向かって言っているのだ。
プログラムには、「イラク戦争とは?」なんてことも書いてあった。映画のプログラムだからしかたがないかもしれないが、アメリカの問題であって私たちとは何の関係もないかのような書きぶりには、強い違和感があるし、怖くもなってくる。日本もおおいに関係していたイラク戦争について、きちんと考え、何が起きていたのかを知らなくてはいけないと思う。普天間や在日米軍をどうしたらいいのか考えるためにも。
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by roki204 | 2010-06-07 00:26 | 本や映画

『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』

図書館で『大どろぼうホッツェンプロッツ』を探していたら、アレン・ネルソンの『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』を偶然見つけた。前から気になっていた本だが、児童書だったとは知らなかった。
貧しさから海兵隊に入り、ベトナム戦争に従軍したときの体験を書いたものが『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』だ。
ネルソンさんは復員してからPTSDに苦しんだが、その後は、戦争がいかに恐ろしく、ひどいものであるか、自分の体験を語り、戦争をなくすために活動し、沖縄の米軍基地反対の活動もしていたそうだ。そして、今年3月、61歳で亡くなった。
毎年、夏になり、終戦の日が近づくと、戦争に関するテレビや新聞記事が増え、戦争を経験した人が少なくなっていく、だから今のうちに伝えておかなくては、聞いておかなくては、ということが言われる。でも、日本にはいなくても、ほかの国では戦争を経験した人は増えているし、今まさに経験している人もいる。
そんな人たちをもう増やさないために、ネルソンさんからのメッセージをしっかりと受け止めたい。
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by roki204 | 2009-09-16 23:18 | 本や映画

『神去なあなあ日常』

先週、チェーンソーの特別教育を受けてきた。法律によれば、これで私もこんな太~い木の伐採もやっていいことになるらしいが…
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できるわけがない。
そのとき受講したのは30人ほどいたが、林業関係の仕事をしている人は少なく、ほとんどが造園やさんや電気会社の人だったようだ。斜陽産業と言われる林業、しかも森林が少ない千葉県ではそんなものだろう。学生の頃、マイナーな林学科や林業をメジャーにするにはマンガがあったらいいんじゃないか、「スラム林科」とか「野帳 島耕作」とかどうだろうか、なんて言っていた人もいたのだけれど。

『神去なあなあ日常』はマンガではなく小説だが、林業の話だ。緑の雇用の研修生が主人公だというので読んでみた。
緑の雇用とは、研修生を受け入れる事業体に対して研修に必要な経費を助成する林業の担い手対策の事業。主人公は母親と高校の担任に仕組まれ、高校卒業と同時に山奥の村に送り込まれ、おやかたさんのもとで林業に従事することになってしまうのだ。
ストーリーはありがちで、軽くてさらっと読めてしまうようなもの。それでも読後感が爽やかなのは、「林業をやっている人たちは大らかでのんびりしてて、どこかいい加減」と感じている著者に、私が共感しているからだろう。
肝心の林業については疑問を感じるところもあるが、よく調べて書いていると思う。人工林での作業のこと、なぜそれが必要なのか、など。山仕事はきつくて危険だけれど、楽しくやりがいのあるもの。そんなふうに描かれている。この本の帯にあるように「林業っておもしれー」と思ってもらえるのではないだろうか。

ちなみに、私がいた頃はマイナーだった林学科にその後は学生、それも女性が増えたのは、マンガや小説のおかげではなく、学科名が「森林科学~」とか「環境~」に変わったせいだった。それに対しては複雑な思いがあったのだが、最近では林業をめざして林学系の学科に入ったのに、林業よりも森林学にシフトしていることに不満を持っている女子学生が多いということを森林ジャーナリストの田中さんのブログで知った。『神去なあなあ日常』を読むまでもなく林業をめざしている頼もしい後輩たちがいることを嬉しく思いつつ、彼女たちの思いの受け皿はあるのだろうかとちょっと心配。
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by roki204 | 2009-08-06 00:41 | 本や映画

『ハチはなぜ大量死したのか』

イチゴの季節が始まった頃、じいじのイチゴはいびつな形をしているものが多いのはどうしてだろうと思い、同じ職場にいるイチゴ担当の人に聞いてみた。すると、イチゴは全部の雌しべが受粉しないときれいな形にならないのだと教えてくれた。筆を使って受粉させてもいいし、農家ではハチを使うのだとも。
ここでもハチが活躍しているのかとびっくりした。ちょうど『ハチはなぜ大量死したのか』を読んでいるところだったのだ。欧米で多くのハチが死んでいること、その原因が私の仕事とも関係のあるネオニコチノイド系の農薬ではないかと言われていることから気になっていたときに見つけたものだ。

本の題名には「大量死」と入っているが(原題にはない)、正確にはハチの失踪によって巣が壊滅するCCD(蜂群崩壊症候群)と呼ばれる現象で、2007年の春までに北半球の4分の1のハチが消えたのだそうだ。ハチがいなくなると、蜂蜜が採れなくなるばかりではない。リンゴもブルーベリーもアーモンドも、ハチをはじめとする花粉媒介者がいなければ実を結ぶことはない。家庭菜園のイチゴなら筆を使って人力で受粉させることもできるだろうが、大量生産する農場では不可能だ。CCDは、養蜂業者だけの問題ではなく、農家にも、果実を食べている私たちにも深く関わることなのだ。
原因不明のCCDについて、ときにはふざけすぎではないかと思うほどの軽めの文体で、テンポのいいミステリーのように謎解きを進めていく。だが、結局、決定的な犯人というのはわからない。オリエント急行殺人事件のように全員が犯人なのかもしれない。犯人はわからないながらも、CCDから見えてくるのは復元力と多様性を取り戻さなければならないということと言う著者には共感する。
そして、この本のおもしろいところは謎解きだけではない。原因を探るためには当然ハチの生態を知らなければならないわけで、その部分がおもしろいのだ。典型的なハチの一生や群集の知恵、ハチを使って地雷を探すこともできる(!)など、興味深い話が盛りだくさん。そして蜂蜜についても、傷を治し、風邪薬となり、深い安眠、体重減少、学習能力促進と様々な効能があるという。ハチってすごい!と思わずにはいられない。ハチを飼おうとまでは思わないが(ハチを飼いたければどうすればいいかということも書かれている)、庭にハチが喜びそうな花をもっと植えて、ハチを大切にしようという気になってくる、ハチへの愛情がいっぱいの本なのだ。

ところで、じいじのイチゴだけれど、今年は去年までよりも形のきれいなものが多かった。じいじのことだから筆で受粉なんてやってるわけないと思ったが、やっぱり自然にまかせているとのことだった。まかせられる自然があるというのはありがたいことだと、花粉媒介者たちに感謝しながらイチゴを食べている。
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by roki204 | 2009-05-24 01:42 | 本や映画

『北の彩時記 アイヌの世界へ』

大学の実習で山を歩いていたとき、一人がそばにあった木を指差して言った。
「あ、“タラの芽の木”だ!」
それはつまり正式名称をタラノキという木。普通はタラノキなんて春に芽を採って食べるだけで、トゲトゲの枝なんかにあまり用はない。だからといって、“タラの芽の木”なんて言ったんじゃあ、本体であるところのタラノキの立場がないじゃないかとみんなで大笑いした。
ところが、こういう呼び名はアイヌ語と同じということを、『北の彩時記 アイヌの世界へ』(計良光範著、コモンズ)を読んで初めて知った。
例えば、サクラ。アイヌ語では、サクラの皮を「カリンパ」、サクラの木を「カリンパニ(桜皮の木)」、サクラの実を「カリンパニ・エプイケ(桜皮の木の実)」と言う。分類学上の種に対しての名前ではなく、アイヌにとって一番重要な樹皮に付けた名前があり、あとはその木、その実という具合。花にいたっては、「花」という一般名詞で呼ぶだけで、「カリンパの花」とも呼ばないそうだ。
ほかのものも、根っこや葉や実など、食用にしたり、道具作りに使ったりするような役割を持つ部分に対して、それぞれ名前が付けられているだけで、種ごとの名前というものがない。
そして、クマの名前は、「山の神」、「長老の神」、「我ら狩りとるもの」などなどの呼び名のほか、オスとメスでももちろん違う呼び名があり、年齢でも呼び分ける。地域による違いも含め、知里真志保博士はクマのアイヌ語名を83例も記録しているそうだ。驚いたのは、前足の長いクマと後足の長いクマもそれぞれ名前があるということ。射そんじて追いかけられたときは、前足の長いクマだったら山の上の方へ、後足の長いクマだったら山の下のほうへ逃げれば助かると言われているそうだから、身を守るために必要があって呼び分けていたのだろう。
このような言葉や、動物は神が姿を変えて人間の国に来たものだという考え方(だから毛皮と肉を人間がいただいた後、魂を丁重に神の国へ送り返す儀式を行う)から、アイヌが多くの自然の恵みを受け、自然に感謝しながら共生していたということがわかる。
和人がアイヌに対してやってきたことといえば、収奪、奴隷労働の強制、分断支配、同化政策…。心が痛む話ばかりだ。この本では、まえがきに「歴史的に過酷な生を強いられてきたアイヌを知ってほしいという思いと、それだけではアイヌの一部しか知ってもらえないという危惧」があり、「もっと楽しい世界があるんだよなぁ~」と思っていたとあるとおり、「過酷な生」については少し触れている程度で、アイヌの楽しい世界のことがたくさん描かれている。だからなおのこと、違う文化を持つ人々を尊重することなく、奪い、同化させ、支配しようとしたことを悲しく思う。
2007年に「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、賛成したものの及び腰だった日本政府も2008年にはアイヌは先住民族であると位置づけた。まだ課題や困難の多い道の途上であるけれど、アイヌもほかの先住民族も、民族としての誇りと権利を取り戻せる時代が来たのだと信じたい。
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by roki204 | 2009-03-03 00:43 | 本や映画

チェ

ゲバラを描いた映画「チェ 28歳の革命」と「チェ 39歳 別れの手紙」を観た。
キューバ革命をカストロとともに成功へと導いた英雄として、今でも熱狂的な支持を受けるゲバラ。でも、この映画では、エピソードを一つ一つ積み重ねることでゲバラがどんな人だったのかを描いたのであって、何を成し遂げたかを描いてことさらにスーパーヒーローとして祭り上げようとはしていない。時間の都合で、ボリビアでの失敗をビスタサイズでドキュメンタリー風に撮った「39歳…」を先に観たせいで、余計にそう感じる。
前の記事に書いた『ヒットラーのむすめ』を読んだ翌日だったので、マークの疑問に対する、これが答えの一つなのかもしれないなんてことを考えながら観た。
「かもしれない」などと言っているのは、革命を成功させるためには武装闘争が必要だという考えに諸手を挙げて賛成する気になれないからだ。政府による暴力に対する正当防衛であり、
現実的にはそういうやり方を選ぶしかなかったのだとしても。
それでもゲバラに惹かれるのは、根底には人々に対する愛があるからだろう。映画の中でも出てきた

ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。
愛のない本物の革命家なんて、考えられない。

という言葉。そして、子どもたちへの最後の手紙。

世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、
いたみを感じることができるようになりなさい。
これが革命家において、最も美しい資質です。

私は革命家にはなれないが、この美しい資質は持てるようになりたいと思う。

ところで、「39歳…」では、私の好きなマット・デイモンがカメオ出演していた。そして、モンヘ役はルー・ダイアモンド・フィリップス。「戦火の勇気」で共演したこの2人、どちらも印象に残るいい演技をしていたっけ。その後フィリップスは全然見かけなかったけど、ちゃんと仕事していたんだなあとちょっと嬉しくなってしまった。まあ、余計なお世話だろうけど。
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by roki204 | 2009-02-10 23:31 | 本や映画

『ヒットラーのむすめ』

『ヒットラーのむすめ』(ジャッキー・フレンチ作、さくまゆみこ訳、鈴木出)という本を読んだ。

マークたちは、雨の日はスクールバスが来るのを待つ間、いつもお話ゲームをしている。みんながあれこれ口出しするのを取り入れながら、アンナがお話を作り、みんなに話して聞かせるのだ。ある雨の日、アンナが話し始めたのはヒットラーのむすめハイジのお話。ただの空想のお話、本当にヒットラーにむすめがいたわけじゃない、と思いながらもそのお話にぐいぐいと引き込まれていくマーク。
ハイジは父親が悪いことをしていたのだからやめさせるべきだったんじゃないか。
でも、もし自分の父親が悪いことをしていたら、自分はやめさせられるのか?
親が信じていることが本当に正しいのかどうか、自分にわかるだろうか?
親が間違ったことをしたら、子どもにも責任があるのか?
みんなが間違ったことを正しいと信じてしまっていたら、自分はどうすればいい?
考えているうちに、マークは気づくのだ。虐殺も戦争も遠い昔、遠い国の自分に関係ない出来事ではなく、今も世界のどこかで虐げられている人々がいることを。

児童文学でありながら、読み進めていくうちに私もマークと一緒に考えさせられてしまった。それと同時に、親としての自分は、マークやハイジ、アンナの気持ちを考えると胸が痛む。
どうするべきか、というマークの疑問にはっきりこれが正解という答えが書かれているわけではない。でも、こどもたちがもう少し大きくなったら、この本を読んでほしい。そのときには、マークの両親のようにこどもたちをがっかりさせてしまわないように、一緒に考えることができたらいいと思う。
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by roki204 | 2009-02-08 02:06 | 本や映画

『カチアートを追跡して』

ティム・オブライエンの『カチアートを追跡して』を読んだ。ヴェトナム戦争の戦場から、パリへ行くと言って突然消えてしまったカチアートを追跡するという物語だ。
ヴェトナム戦争に従軍したオブライエンの作品なので、戦争がいかに悲惨で愚かしいかということは、もちろん伝わってくる。凄惨な場面でもコミカルとも感じられるような描き方であることが、実際そんなふうに感覚を麻痺させなければ耐えられなかったということだろうかと思えて、かえって怖くなってくる。でも、教訓めいたことを声高に主張しているというわけではない。
また、登場人物たちもそれぞれがそれぞれの考えを持っているが、誰が正しいとか、こうでありたいとか、そんなメッセージが強く感じられるわけでもなく、逆に、情けないところがあってもしょうがないじゃないかというような開き直りというのでもない。
ある登場人物に言わせている「兵士というのはひとりひとり違った戦争をしている」というのが、オブライエンのスタンス、ということだろうか。とは言っても、「見解だの認識だのがどうであれ戦争は戦争」であり、「独自の現実ってものがある」のだが。
それでいて、というか、だからこそ、なのか、読み始めたらぐいぐいと引き込まれてしまった。事実と可能性、不幸から逃げることと夢を追うことの違い、義務、恐怖、勇気さえあればできたこと・・・。何かのメタファーかと思うものもあるけれど、だいたい、8600マイルも離れたパリへ向かって歩いて行ってしまったカチアートとそれを追う第3分隊というロードムービー風の設定自体が荒唐無稽だし、何のメタファーかなんてこと詮索するのも野暮だと思うくらいに、この小説の世界にどっぷりはまって、夢中になって読んでしまった。

ところで、少し前に『ハロー、僕は生きてるよ。 ~イラク激戦地からログイン』のことを書いたときに著者を勇気ある人だと書いたのだが、「勇気」という言葉で表現するのは適切だろうかという迷いがあった。
『カチアート~』では「勇気」についてこう書かれていた。

問題は、言うまでもなく勇気ってやつだった。いかに振舞うべきか。逃げる、戦う、手を結ぶ、どれだっていい。が、要は恐怖を持たないことではなく、恐怖をうまく飼い馴らしながら賢く行動することだ。腹の中に溜まった胆汁を吐き捨てて恐怖を自覚すること、それが本当の勇気なのだ。

やっぱり『僕は生きてるよ』の著者は、勇気ある人だと思う。思うけれど、「勇気」って何なのか、はっきりとわかっているのかというと、わかったような、そうでもないような・・・。
そもそも「勇気」って何だろう?と気になりだしたのも、オブライエンを読もうと思ったのも、jukaliさんのせいだ。「勇気」なんてエリック・ホッファーのときからだ。jukaliさん、なんとかしてくれと言いたいところだけれど、おもしろかったから、まあいいか。というわけで、オブライエンにハマってしまった私は、今度は『ニュークリア・エイジ』を読んでいる。
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by roki204 | 2008-10-19 01:11 | 本や映画

『ハロー、僕は生きてるよ。 ~イラク激戦地からログイン』

こどもだった頃、とても好きで何度も繰り返し読んだ本の中の一つに『ちいさいモモちゃん』がある。私は途中までしか読んでいなかったのだが、モモちゃんシリーズは6巻まであると知って、自分でも読みたいし、こどもたちにも読んであげたい、というわけで買い揃えた。こどもたちもとても気に入って、毎晩リクエストするので、3巻まで読み進んだ。
モモちゃんシリーズは、かわいらしい話やおもしろい話だけでなく、重苦しいテーマの話もあって、大人になった今はこどもにこんな話がわかるのかな?怖がっちゃうかな?と思うのだが、1号も2号も嫌がることもなく聴いている。考えてみればこどもだった私も、こどもなりにいろいろ感じながら読み、気に入ったからこそ繰り返し読んでいたのだろう。
そんな重苦しい話の一つに、戦争の話があった。テレビで戦争のニュースを観たモモちゃんは、ママに不安を訴える。戦争はおうちまでくるの?こわいよと泣きじゃくるモモちゃんに、遠いところだから来ない、もし戦争がそばまで来たらだめって怒るからとママは言い聞かせるのだが、モモちゃんは言う。

でも、どこかでしているんだよ、それなのに、だめ!ってママ、いわないの?はやくいわないとみんなしんじゃうよう。

これには頭をガツンと殴られたような気がした。
もし、こどもたちに同じことを聞かれたら? ちゃんと、だめ!って言ってるよと答えたい。でも、ほんとに、ちゃんと言っている?

そんなことを考えながら読んだ本が、『ハロー、僕は生きてるよ。 ~イラク激戦地からログイン』(著者/カーシム・トゥルキ、編訳/高遠菜穂子・細井明美、大月書店)。
この本は、モモちゃん風に言えば、自分の国、自分の街、そして自分の家まで戦争が来て、巻き込まれてしまったイラクの若者が書いたものを、遠くだから大丈夫、自分には関係ないと知らんぷりするのではなく、だめ!って言っている人たちが翻訳して作られたものだ。
内容はタイトルのとおり、イラク激戦地で暮らす著者が英文で発信していたブログやメールをまとめたもの。そこに書かれていること、報道されることがなかったイラクの実情は、読むことすら辛いと感じるものだった。
けれど、そんな状況でも、著者は少しずつ、武力では何も解決できないという考え方に変わっていったそうだ。2003年4月にバグダッドが陥落した頃には怒りと報復の気持ちでいっぱいだったし、ときには非暴力で何ができるのかと迷うこともあった。でも彼は「僕は、暴力を拒絶し、平和を選ぶ」と言っている。翻訳者の一人である高遠さんは、あまりにも理不尽なことが多いから葛藤はあるだろうと言う。けれど、広島へ行ったときには「イラクの新憲法にも9条のようなものを入れたらよかったのに」と言っていたそうだ(そのときにはもう新憲法は制定されてしまっていたけれど)。そうして平和のために活動を続ける著者は本当に勇気ある人だと思う。
そんな著者の言葉で印象に残っているのは、

僕の両手はいつも「平和」にしておかなければならない。

というもの。人々を支援するために両手を空けておかなければならない、手も心も、銃で多忙にしておくべきではない、というのだ。
頭で考えているだけではなく、平和のために、人々の役に立つために、行動しようという気持ちが伝わってくる言葉だ。
モモちゃんの問いかけ、願いに応えるのは簡単なことではないけれど、私も心と両手を平和にしておいて、何ができるか考えよう。
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by roki204 | 2008-10-05 00:34 | 本や映画

カスピアン王子の角笛

少し前のことだけれど、映画「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」を観た。
派手に戦うシーンなどが多く、第1章よりも迫力が増していた。ストーリーは、原作ファンとしては、角笛吹くの早すぎ!とか、そんなに簡単に吹いちゃっていいのか?とか、城に奇襲攻撃なんて原作にないじゃん!とか、白い魔女って出てきたっけ?とか、なんでラブロマンスが?!とか、気になるところはいくつかあったものの、映画としておもしろくするためにはこういうのもアリなのかな~と妥協範囲。原作と変えている部分でピーターがちょっと情けなくなっていたのは残念だけど、エドマンドの成長ぶりは期待以上だし、ルーシー、スーザンも大活躍。
そして特筆すべきは、ナルニアって本当にこういうところなんだろうなと思える、うっとりするような美しい風景。撮影地はニュージーランドだそうだ。「ロード・オブ・ザ・リングス」の撮影もした国だ。あのときも、中つ国って本当にこういうところなんだろうなとうっとりしてしまった。こんなところが地球のどこかにあるのだと思うだけでも嬉しくなってくる。ニュージーランドにはいつか絶対に行こう。

・・・というわけで、映画はとてもおもしろくてよかったのだけれど、気に食わない点が一つ。
林野庁でやっている「美しい森林づくり推進国民運動」に絡んで、ディズニー社と劇場運営4社がこの映画を使って展開していた「美しい森林づくりキャンペーン」。ディズニー社では、「カスピアン王子の角笛」のストーリーには“森と人間の共存”について考えさせられる内容が盛り込まれており、映画とそのプロモーション活動を通じて、一人ひとりが森林について改めて考え、森林の大切さや知識を得る機会につなげていきたいとしていたそうだ。
映画の中で、ナルニアでは小人やセントール、もの言うけものたちなどのナルニア人は森の中でひっそりと暮らしている。一方、人間であるテルマール人は、森を嫌い、近づかず、手をつけない。だからこそテルマール人に追われ、もういなくなったと思われていたナルニア人たちは、細々とではあるけれど森の中で生きていられた。しかし、いざナルニア人との戦いが始まると、テルマール人は川に橋を架け、ナルニア人たちがいるアスラン塚に攻め込むために大量の木を伐採する。最終的には、アスランの呼びかけで目を覚ました木々の精霊がテルマール人たちを追い払い、川の精霊が橋を壊し、ナルニア人の勝利となる。
物語としてであれば何も文句を言うことはない。けれど、これで“森と人間の共存”について考えようというのが気に食わない。原作を変えてまで描いた人間と森林の関係は、「伐採して利用すること=悪」、「人間の手を加えること=環境破壊」という昔に逆戻りしたようなガチガチの自然保護メッセージにしか見えかったからだ。
今どき本気でそんなことを伝えようとは思っていないのだろうが、林野庁が盛んに言っている間伐推進、国産材利用促進とはちぐはぐな印象であったことは否めない(温暖化防止で間伐推進というのもトンチンカンな気がするが)。
人の手を加えなければいい森林になるというのは、たぶん何百年という長いスパンでのことであって、そうなるまでには一時的に不健全な状態や人間にとっては都合の悪い状態になることもあるだろう。それでも手を入れずに保護するべき森林もあるが、すべての森林を保護して気長に待っていられる状況ではないし、森林を利用しなければ人間は生きていけない。キャンペーンをやるなら、賢く森林を利用しようというメッセージを読み取れるような映画にしてほしかった。

・・・っていうか、こういう楽しいファンタジーをつまんないキャンペーンに利用しなきゃいいんだよな。
ナルニアの次回作は海が舞台になる航海の物語。「海をきれいにしよう」キャンペーンなんてものに使われることがありませんように。
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by roki204 | 2008-07-24 00:45 | 本や映画