ベルリンの学校と日本の学校・社会

前回の続き。

ベルリンの学校で授業が成り立たなかったり、校内暴力が起きてしまったりすることを、パレスチナ難民キャンプのことと結び付けて考えて、希望を持てないことが人生に対し投げやりになってしまうこと、ひどいときには暴力につながるのではないかと思い、ならば、日本の学校はどうだろうか、私たちのこどもたちはどうだろうかと考える。ベルリンもパレスチナも遠い遠いところ。それにドイツと日本では教育のシステムは全然違うし、日本はドイツのように移民を受け入れてはいない。でも、希望を持てないという状況は他人事とは思えない。
日本の学校では、強制しないはずだった日の丸・君が代が強制され、東京都の教育委員会は職員会議での挙手や採決を禁止し、教育基本法は「愛国心」を持つようになどと改正されようとしている。格差は拡大し、固定していく中で、格差があって何が悪いと開き直るような人間が首相をやっている。大学を卒業しても必ずしも「いい会社」に就職できるわけではなくなり、ニートが増えているが、個人のやる気の問題とされ、社会や政治に問題があるとは考えない人も多い。そんなふうに息苦しい世の中に変わっていく中で、これから学校に通い、教育を受け、成長していくこどもたちは希望を持つことができるのだろうか。
うちのこどもたちを塾に通わせ、いい学校に入れるようにし、いわゆる「勝ち組」になれるように自衛手段を取ればいい・・・そんな問題ではない。「勝ち組」「負け組」なんていうバカげた分類があるような社会では、いつか「負け組」に転落するのではないかといつも不安を抱えていなくてはならないし、誰かを蹴落としてでも競争に勝ち、自分は「勝ち組」であり続けようとするなんてことはしたくない。
格差のない、誰でも希望を持てる社会に、とは思っても、あまりにも問題が大きすぎて、細かいことまでは考えが及ばない。誰かに突っ込まれればたちまちボロが出そうな、あいまいな思いでしかない。それでも、もっとちゃんと考えて、何か行動しなければ、こどもたちを守れないんじゃないかと不安になる。

今、読んでいる本のまえがきに、運動会の徒競走で手をつないで一緒にゴールインさせるのが悪平等の典型などと言われるが、そんなことは社会全体を説明する要素ではない、ということが書かれていた。それを読んで思い出したのは、私は小学生のとき、走るのが遅かったので運動会の徒競走が嫌いだったということ。だからって、みんなで一緒にゴールインなんておかしいと思うし、社会全体をそんなふうになんてことも考えない。
中学校では、徒競走ではなくクラスリレーというものがあった。1クラスを4チームに分けてリレーをやる。これならば、足の速さだけではなく、バトンの受け渡しも勝ち負けの大きな要素となるし、一人ひとりの速い遅いは徒競走ほど目立たない。チーム分けや走る順番は、遅い人を速い人がカバーできるように考えて決めていた。足の速い人にとっては、クラスリレーでの第一走者やアンカーのほかにも、速い人だけでチームを作ってやる選手リレーという活躍の場があった。私は、徒競走がないことが本当に嬉しかったし、苦手な人が劣等感を持つこともなく、得意な人がちゃんと活躍できるリレーのほうがずっといいやり方だと思っている。
徒競走とクラスリレーのどちらがいいかなんて話を友達としたことはないからわからないけれど、リレーなんていやだと思っていた人もいるのかもしれない。私の知らないところで、走るのが遅い人をクラスのお荷物と考えることもあったのかもしれない。遅い人で肩身の狭い思いをし、個人競技の徒競走のほうがいいと考えた人もいたのかもしれない。そして、もちろん、社会全体を考えたとき、ことは徒競走のように単純ではない。学校のクラスのことで、全員参加するものだったから遅い人が排除されることはなかったけれど、一般社会に置き換えれば、お荷物は排除するということもあるのかもしれない。
でも、このクラスリレーをヒントに考えを進めていくことはできないだろうか。きれいごとだとか理想論だとか、そんなふうに一言で片付けられておしまいになるようなものではなく、きちんと相手を納得させられるように理論的に考えられるようになりたい。そして、考えるだけでなく、行動できるようになりたい。こどもたちも私も希望を持って生きていけるような社会にするために、きちんと考えて、少しでも行動すること、それが子どもたちに対する親としての私の責任。
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by roki204 | 2006-04-20 12:54 | ひとりごと
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